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摂社・末社のご由緒


御魂振之宮(奥宮)

 昭和二十年三月十四日、阿部野神社は大東亜戦争の戦火により灰燼に帰しました。戦後の復興は同年十二年に開始され、御祭神は仮社殿に奉祀されました。同時にこの御魂振之宮の神々もお祀りされ、復興成就の祈願がなされ、その不思議なる霊験あらたかな御深慮によって幾多の試練を乗り越え、昭和四十三年十一月四日に社殿が竣工致しました。毎月九日には御魂振之宮祭を執り行い、御深慮に対する報恩感謝の祭典をご奉仕しております。お社の名前の由来とその信仰は本来より持っておられます素晴らしい魂を奮い起こし願い達成に力強い息吹を与えるものと存じます。戦後、当神社の三代にわたる宮司と氏子・崇敬者が社殿の復興を念じ続けられ、その願いを果たされました。それ故にこのお宮は「一願一遂の宮」とも呼ばれています。



勲之宮

 「陸奥守」兼鎮守府大将軍源顕家公は村上天皇の具平親王十二世の孫准后親房公の「第一子」であられます。延元二年、顕家公は勅命を奉じられ、逆賊足利高氏を討って京都を奪回しようと奥州「五十四」郡の精兵を率いて再び西上の途に就かれました。各地を転戦し、賊軍を破られましたが、翌三年三月十六日、摂津阿倍野の戦いに惜しくも敗れられてしまいました。わずかな残兵を率いられ和泉国の観音寺に拠られ、やがて五月十六日賊将高之師直の軍が堺の浦に陣を敷いたので、二十二日官軍は進撃して数刻にわたって激戦されました。しかし、顕家公をはじめ多くの武将が石津の地で壮烈な戦死を遂げる結果となってしまいました。顕家公は御年二十一歳でございました。この勲之宮は石津の戦いで顕家公とともに戦死された甲州波木井梅平の城主南部師行公とその一族郎党百八名の方の御霊をお祀りしているお宮です。



祖霊社

 人は帰幽すると、その御霊は御祖の霊神と共に霊界に留まり、累代の祖霊社に鎮祭されて、一家の守護神となります。当社の今日あるのも祖先の賜物であって、日々の営みも社頭の励みも子孫の教育も、総て祖霊の加護によらなくてはなりません。そのため当社では篤くその高恩を謝し深く心に銘じてその祭祀の厳修を怠らないように歴代宮司・奉賛会会長及び氏子総代会の方々の御霊をこの祖霊社にお祀りしております。



旗上稲荷社

 我国最古の文献の一つとされている山城国風土記の逸文には、稲荷を「伊奈利」と誌しています。イナリとはイネナリ、イネニナルのつづまったもので我々日本人の生活の根源である稲によって天地の霊徳を象徴した古語とされています。当社では豊受稲荷大明神、高倉大明神、白鷹大明神の御霊験ある三柱の神様を旗上稲荷大神と総称してお祀りしております。尚、旗上げとは命をかけて精進・努力する証を表しています。



土宮

 阿部野神社の土地を守護されている神様をお祀りしたお社です。大土地主之神(おおとこぬしのかみ)または白姫大明神とも言われている神様です。



旗上芸能稲荷社  

 稲荷信仰には、五穀豊穣、商売繁盛を願うほかに芸能上達の守護神として古くから信仰されています。当社では大宮能売大神(天宇受売命)を御祭神として、この旗上芸能稲荷社にお祀りしております。
 毎年、十五夜にあわせまして、旗上芸能稲荷社大祭を斎行しております。諸芸の道に勤しみ、身をたてている方々の崇敬を集めております。