ご由緒

御祭神の由緒

北畠親房公は、第六十二代村上天皇の皇子、具平親王の子息である師房が源の姓を賜ったことに始まる村上源氏の血筋を引く方でございます。

親房公は、当時の学識の高い貴族である吉田定房・万手小路宣房と並び「後の三房」と称された一人です。

また後醍醐天皇の皇子である世良親王の養育係を仰せつかったことからも、殊に天皇のご信任が厚かったといわれております。

建武の新政下では、鎮守府将軍となった御長子の顕家公と共に義良親王を奉じて奥州へ下向されます。その後、足利尊氏謀叛による二度目の京都攻めのため、後醍醐天皇が吉野御潜幸をされると、吉野朝(南朝)の中心人物として伊勢、あるいは常陸において、京都回復に尽力されました。

後醍醐天皇の崩御後は、跡を継いだ後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で中世二大史論の一つである『神皇正統記』を著し、それ以外にも『職原抄』・『二十一社記』などを著して官職の本義や神社の意義を明からにされました。

厳しい戦況下にあって親房公は、我が国の歴史と伝統を明らかにして、大義を説き、道義を教えた数多くの著述は、後世の人々に深い感動を与え、日本思想史上に大きな足跡を残しました。

興国四年(一三四三)、親房公は吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、一度は京都を回復しましたが、再び京都を脱出して賀名生にうつられました。その後も国家中興に挺身されましたが、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられました。御年六十二歳でした。

北畠親房公像

北畠顕家公は親房公の御長子で、元弘三年(一三三三)八月、建武の新政で陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、同十月、父親房公と共に義良親王を奉じて陸奥へ下向され、奥州はたちまちにその威風に靡きました。

延元元年(一三三六)、足利尊氏が謀反を起こすと、上洛して九州に敗走させることに成功いたします。この功績により顕家公は鎮守府大将軍の号を賜ることになり、再び奥州に戻られました。しかし、勢力を盛り返した尊氏が、兵庫の湊川で楠木正成公を破って京都を占領し、後醍醐天皇が吉野に御潜幸されると、延元三年(一三三八)京都回復のため精兵を率いて再び西上の途に就かれました。各地を転戦し、鎌倉を落としたあと、美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での戦いおいては北朝方を破りましたが、同年三月十六日、摂津での戦いに惜しくも敗れられてしまい、顕家公は一時撤退を余儀なくされ、わずかな残兵を率いて和泉国の観音寺城に拠りました。やがて五月十六日、賊将高師直の軍が堺の浦に陣を敷いたので、顕家公率いる官軍は進撃して、数刻にわたり激戦を繰りかえしました。しかし、顕家公をはじめ多くの武将が、阿倍野・石津の戦いで壮烈な戦死を遂げる結果となってしまったのです。御年二十一歳でございました。

北畠顕家公像

また、顕家公は戦死される一週間前に、後醍醐天皇へ「上奏文」を送っておられます。

その内容は

一 地方機関を通じて非常時に供えること
一 諸国の租税を免じ、倹約を専らにすること
一 官爵登用を重んじること
一 公卿や僧侶の朝恩を定めること
一 臨時の行幸及び宴飲をやめること
一 法令を厳にすべきこと
一 政道に益無き愚直の輩を除くこと

の七箇条から成ります。

この「上奏文」は、顕家公の卓越した洞察力と政治理念を知ることのできる資料として今日に至るまで高く評価されております。


摂末社のご案内

御魂振之宮(奥宮) (月次祭 毎月九日)

御祭神は、中央より天照大御神、向かって右側が三輪大神と少彦名大神、そして向かって左側が菅原道真公でございます。昭和二十年三月十四日、阿部野神社は大東亜戦争の戦火により灰燼に帰し、戦後の復興は、同年十二月に開始され、ご本殿の御祭神は仮社殿に奉祀されました。

その際に、この御魂振之宮の神々も一緒にお祀りされることになり、阿部野神社復興成就の祈願がなされることとなりました。そして御祭神の霊験あらたかなる御神慮により、昭和四十三年十一月四日、ご本殿が復興いたしました。

御魂振之宮は、戦後当神社の三代の宮司、そして氏子崇敬者の方々が魂を振るい起こし、社殿復興を一願一遂の願いとして祈念してきたお社でございます。それ故、この御魂振之宮は「一願一遂の宮」と呼ばれております。

御参拝の皆様も、何事か成さんとする時、どうか不退転の精神で「一願一遂」の願いを果たすことを強く念じて下さい。


勲之宮(月次祭 毎月十五日)

御祭神は、南部師行公とその一族郎党百八名の御霊です。

南部師行公は、根城南部氏(八戸氏)の当主で、陸奥守北畠顕家公が後醍醐天皇の皇子の義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城(現在の宮城県多賀城市)に下向されると、師行公はこれに従い、数々の功績を治められました。

建武二年(一三三五)、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、顕家公は尊氏を追討するために義良親王とともに陸奥の地を離れられました。師行公は、陸奥を守備するために弟の政長公と共に残留し、尊氏側についた軍勢と戦い、みごとその留守を守られたのでした。

延元二年(一三三七)に顕家公は、陸奥における南朝の拠点を伊達郡霊山(現在の福島県伊達市)に移しました。この年の八月に再び勢力を盛り返した尊氏を討つため、師行公は顕家公と義良親王に従って、京へ向けて出発することとなりました。陸奥を出発するにあたり、師行公は政長公と信政公に「此度の上洛は厳しく、おそらく自分は討死するだろう、しかし自分が戦場の露と消えても、悲しまず、節操を曲げずに忠節を貫徹したことを喜んで欲しい。」という遺言を残され、覚悟を伝えて励まし、また「自分達南部一族が奥州に多くの土地を得られたのは顕家卿と帝の恩恵に浴することができたからこそで、たとえ帝の政に瑕疵があろうが、安易に節操を曲げてはならない。」と戒められています。

延元三年(一三三八)一月、美濃国青野原(現在の岐阜県大垣市)での戦いでは北朝方を破りましたが、同年、阿倍野・石津の戦において南朝方は北朝方の高師直の軍に敗北し、師行公は、顕家公の戦死の報を聞くと僅かに残る一族郎党百八名と共に敵陣に斬りかかって、壮烈な最期を遂げられました。

現在は、ご本殿の側に御鎮まり頂いております。


祖霊社(月次祭 毎月十五日)

御祭神は、当神社の歴代宮司、奉賛会会長、氏子総代、崇敬者の方々の御霊です。

人は帰幽すると、その御霊は御祖の霊神と共に霊界に留まり、累代の祖霊社に鎮祭されて、一家の守護神となります。当社の今日あるのも祖先の賜物であって、日々の営みも社頭の励みも子孫の教育も、総て祖霊の加護によらなくてはなりません。そのため当社では篤くその高恩を謝し、深く心に銘じてその祭祀の厳修を怠らないようにお祀りしております。


土宮(月次祭 毎月十日)

御祭神は、白姫大明神という阿部野神社の土地を守護される神様でございます。別名大土地主之神ともいわれております。大土地主之神は、その土地や地域を守護する地主神として古来より信仰されています。


旗上稲荷社(月次祭 毎月十日)

御祭神は、豊受稲荷大神、高倉大明神、白鷹大明神の三柱の神々です。

「イナリ」とは、人間生活の根元である稲によって、天地の霊徳を象徴した語といわれています。御祭神の豊受稲荷大神における「ウケ」という語は食物のことで、食物・穀物を司る女神をあらわしております。後に、他の食物神のオオゲツヒメ・ウケモチなどと同様に、稲荷神(ウカノミタマ)と習合し、同一視されるようになったとされております。このように稲荷社は古来より日本人の食生活の基盤である稲の信仰から生まれ「稲成り」・「稲生り」の読みに通じるとも考えられております。その為、古より五穀豊穣のみ成らず、その食を得るための手段である商売や産業に対しても御利益のある神様として親しまれてきております。

当神社の旗上稲荷社の「旗上」とは、精進努力し、成功をおさめて「一旗上げる」という意味がございます。

それ故、御崇敬の方々の多くは、朱の鳥居や旗をお社にご奉納され、それぞれ商売繁盛や事業の成功を祈願されます。


旗上芸能稲荷社

御祭神は、大宮能売大神という伏見稲荷大社の上社にもお祀りされている神様でございます。別名を天宇受売命ともいわれており、芸能上達の守護神として神代の昔からその信仰が受け継がれています。



神馬像の由来・御利益

当神社の御祭神・北畠顕家公は、足利尊氏が謀叛の折、東北から京都まで馬で馳せ参じ、後醍醐天皇を助けた方です。顕家公にとって馬は大事な存在であり、神社創立の時代から神馬像がお供をして建立されておりました。戦禍のため一旦は姿を消したのですが、平成の世になり氏子崇敬者のお力添えで、二頭の神馬像を西参道大石段上に得ることができました。向かい合う神馬像は「幸誘う語らい神馬」といわれ、絆やコミュニケーションの大切さを教えてくれています。また、馬は顕家公を遠路無事に運んだことから、車やバイク、自転車といった身近な物から飛行機に至るまで、乗り物関係の安全にも御利益がございます。